写真の撮影や現像作業が煩雑だった写真黎明期から半世紀以上が経過し、ライカに代表されるカメラの小型化、現像・焼き付け方法の簡略化、写真独自の表現を追求する「新興写真」あるいは「前衛写真」の波がやってきても、1930年代の日本の写真史にはまだ職業写真家としての女性の姿はほとんどいなかった。二つの大戦に挟まれたこの時代、他の業界同様日本の写真界にはまだ女性がカメラを持って生活していくビジネスモデルは許容されていなかったのだと思う。依然として女性はまだ撮られる側であり、撮る側ではなかった。例外として山沢栄子(1899-1995)はアメリカから帰国してすぐに大阪で写真スタジオを経営していたし、野島康三が発足させた女性だけの「レディス・カメラ・クラブ」の中にも土浦信子、松永(佐藤)田鶴江、溝口歌子、富永芳子、黒田米子、渡辺マツコ、野口菊江のように職業的な写真家を目指していたものや、自身にふさわしい表現言語として写真を選んでいたものもいた。しかし彼女たちのほとんどはその後写真家としての道を断念し、別の人生を歩んでいった。
ここまでが書籍やネット上に記されている教科書的な写真史の話。
ここからはもう少し幅を広げて、写真家としての有名無名を問わず、プロアマも問わず、当時のカメラ雑誌に掲載された「女性が撮影した」写真を、たまたま入荷した『アサヒカメラ』や『写真文化』から拾い上げてみた。掲載写真のほとんどはカメラを買うことができた比較的裕福な家庭のご婦人方が撮った趣味的な写真 が中心なのかもしれないが、中には山沢やレディス・カメラ・クラブのメンバー以外にも職業写真家として女性(岡田都、鶴殿輝子など)が活動していた事実も新たに確認できた。都会を中心に消費社会が拡大していき、文化的にも花開いた昭和モダンの1930年代初頭から、徐々に戦争の暗い雲が覆いはじめるこの期間に、カメラを手にしたわずかな女性たちがいったい何に反応しシャッターを切ったのか、その一端が垣間見える。
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アサヒカメラ 1933年8月号
とろけた東京 山脇道子
カメラを通して真夏の銀座を観る。暑いから涼しくなりたい、冷めたい飲み物が欲しい、緑の木蔭も結構、アラスカの氷原ならなおいい。だが、余りに古くないかしら。手のつけられない蒸しタオル、煮たった番茶の一ぱいはあとが気持ちよく涼しい。暑さでとろけた行人の姿をみつめるのも或る意味での銷夏法になりませう。真昼の銀座の人種は雑多だ。-二人の子供の簡単服を、デパートで半日捜し疲れたお神さん、これは暑さで小し生活苦が見え過ぎる。-赤ん坊を預けられた御主人、「半襟だけにしては時間がかかり過ぎるが......」と考える、とたんに一寸、スナップ。カメラが家庭争議の原因にならねばよいが。-邦楽座の開幕にはまだ間があるとのお二人連れ、これ又暑い。-萬事をあきらめて静かに夕暮を待つ御年寄り、あたまの中には晩酌の涼味がをどる。-白い襟脚の上だけは真昼の暑さもよけて通る。汗でゆだった銀座のスナップを、鋏と糊でモンタージュして居る間だけは確かに暑さを忘れて居ます。-二面のフォトモンタージュは合計廿一枚の写真からなる-
アサヒカメラ 1934年7月号
婦人矯風会 ガントレット恒子(ガントレット恒)二枚共。
(1)(2)今年アメリカンスクールで撮ったものです。
女流作家 吉屋信子 名士アマチュア傑作写真集
(2)和歌山城天守閣(昭和9年5月紀州旅行中)
(3)ロンドン郊外ウインゾア宮殿門前の番兵さん(昭和4年5月英国旅行中)
(4)巴里裏街旅芸人の馬車・住家と生活(昭和4年3月巴里滞在中)
声楽家 ダン道子 山の写真二枚
(5)(6)は箱根です。素晴しいバックの積りで撮りましたが、焼いて見ると余り大したものでもないので、少しお目にかけるには残念です。
声楽家 四家文子
二枚共昨秋の山歩きの獲物です。
(8)は、燕岳展望台より大天井の尾根をこして槍穂高の連峰をのぞむ。
(9)は上高地、河童橋の橋柱の間から穂高を見たところ。
アサヒカメラ 1941年6月号
特輯 婦人写真家としての体験を語る
坊っちゃん 岡田都
『希望に満ちた写真の勉強 岡田都』
今から二十数年前に、夫(岡田紅陽)が押入れに入って写真の仕事をしている当時から、何かと御手伝いをしていた私も、いつしか写す事まで覚え遂に本格的の私の大切な仕事にまで漕ぎ着けてしまいました。只今はデパートの写真部を経営。四、五名の技師や助手を督励しながら毎日精進を続けている。
明るい尾根道(燕岳にて) 黒田米子
『写真の上手下手を超えた境地 黒田米子』
「将来はどんな方面にのびたいとお思いですか」との編輯部からのお訊ねに、私は、いま、「下手でも間にあう写真を撮りたい」とおもっています、とお答えする。 冗談じゃない、と叱られるかもしれないが、真面目に、そう考えて、下手でも間にあう方向のものを撮ることが、即ち私のささやかなる写真術を生かす道だと信じている。毎日八時間もの勤めを持ち、原稿書きや読書に徹夜することも度々ある程の私の生活〜私のぜひとも狙いたいものは「山」
舟(ゴム写真) 鶴殿輝子
『男の写真家と比較して 鶴殿輝子』
写真家といっても、営業家と作家とありますが、作家の事について述べます。男の写真会が何百あるというのに、女の会は数える程しかありません。数に於て到底比較にはなりません。それなら質に於て如何かというに、これ又遺憾ながら男子に及ぶものではないと思います。今の処、女でも写真を作る事が出来るという程度のものではないでしょうか。但し、ハイキング等でパサパサと写して後は写真屋に頼むというのは作家には入りません。撮影、現像、引伸を自らなし得る程度でも作品にあらず、構図、調子に自分を表現し得たと信ずる作品を世に示し、なお製作方法としては一通りピグメント印画の製作苦心の経験に達した人をもって初めて作家と云えましょう。この標準をもって何人の女流作家が日本に存在しているでしょうか。女性ばかりでなく男性に於て然りです。